岩井圭也日誌

小説を書いています。2018年夏頃にデビュー作『永遠についての証明』刊行予定。岩井圭吾とも。

名前変えました

 フロンティア文学賞受賞時の「岩井圭吾」から「岩井圭也」に変えました。少し字面がスッキリしたような気がします。

 

 先日は結婚式で稚内へ行きました。

 晴天かつ無風の日(稚内では年間に数日しかないらしい)で、とても良い式でしたが、余興でマツケンサンバを踊ったせいでしばらく筋肉痛に悩まされることになりました。全力でやると結構しんどいですね。

 

 ともかく、これからは「岩井圭也」でお願いします。

北大生はこれを読め! part2

 以前、同じようなタイトルで『七帝柔道記』と『アリハラせんぱいと救えないやっかいさん』を「北大生必読書」として紹介しました。

 今回紹介する作品も北大、特に工学部と植物園が主な舞台になります。現役生にもOBにもなじみ深いアイコンが頻出し、なおかつ作品自体もすばらしいのでぜひチェックを。

 

 早瀬耕さんの作品を読むのは『プラネタリウムの外側』(ハヤカワ文庫JA)が初めてでした。北大が舞台の連作短編集と知り、急いで購入。読みはじめたきっかけもすぐに忘れて、作品世界へとあっという間に吸いこまれました。

 本書は5編から成る連作短編集。描かれるのは現代(又は近未来)でありながら、SFと恋愛小説のおいしいところだけを濃縮したような作品で、読了後に心地よい浮遊感を味わわせてもらえます。

 1話目、物語は寝台列車の車内からはじまります。下関を出発し、札幌へ向かう道中。男性がちょっとしたきっかけから女性と知り合い、言葉を交わし、徐々に距離を縮めていくさまが描かれていくのですが――

 とにかく、この短篇集は一筋縄ではいきません。1話目の中盤で<ある事実>が明かされ、さらにラストでは思いもよらない展開になります。呆然としたまま2話目へ移ってください。霧はすぐには晴れませんが、じきに少しずつ物語の輪郭が明らかにされていきます。「ああ、なるほど」とつぶやく一方で、どこか腑に落ちない部分も残りつつ、大枠では理解したように思わせられる。そのまま最終話を読み終わり、文字列から顔を上げた後も、まだ小説世界が続いているような気がしてしまうのです。そしてまた1ページ目に戻って再読することに。

 少し引っかかっても最後まで読み通せば、ある景色が見えてきます。それは紛れもなく、「プラネタリウムの外側」からしか見ることのできない景色です。

 

 個人的に最もすごいと感じたのは、「わかったようで、わからないようで、でもわかる」と最後は読者を「わかる」に落ち着かせるところです。

 訳のわからない小説というのは意外とたくさんあって、わからないなりに何かとてつもないエネルギーが感じられればいいのですが、残念ながらそうではないこともしばしばあります。訳がわからず、エネルギーもいまひとつな小説は、なんだか煙に巻かれたような気がしてスッキリしません。

 しかしこの作品は最終的にギリギリ「わかる」のです。置いてけぼりにされた、とは感じないのです。100%わかっているかと問われると自信はありませんが、それはどの小説でも同じことでしょう。大事なのは自分自身が腹に落ちたかどうか。

 特に圧倒されたのは4話目「忘却のワクチン」。物語に施された仕掛け、描写、ラスト、どれをとってもため息が出るような完成度です。これだけでもぜひ読んでほしいけど、でも最初から読んだほうが楽しめるはずだから、やっぱり最初から通して読んでほしい……そんな葛藤に苛まれるほど魅力的な一冊です。

 

 現役の北大生だったころ、農学部の私は研究の都合で時おり附属植物園を訪れていました。平均的な北大生よりは確実に足を運んでいたはずです。真冬は心配になるほど植物が雪に埋もれてしまいますが、根雪が溶けると新緑が生い茂る爽やかな園になります。その片隅に落ちていた物語のかけらに、当時の私はまったく気づきませんでした。

 もしかしたら今でも、そこにはかけらが残っているのかもしれません。

わたしと『数本』 4冊目

天才の栄光と挫折 数学者列伝』文春文庫

藤原正彦

 

 普段あまり本を読まない人からこんな質問をされたとする。

「数学者の伝記を読んでみたいんだけど、何かおすすめある?」

 相手が数学にも読書にもなじみがない人であれば、本書はお勧め候補の筆頭に挙げられる。

 

 1冊で何人かの数学者をオムニバス的に紹介する本というのは、実は結構ある。

 しかし残念なことに、その人物の主要な業績や型通りの解説に終わっている場合も少なくない。知識として得られれば何でもいいというのならそれでも結構だろうが、せっかく個人的に本を読むからには「理」だけでなく「情」を味わいたいという方も多いだろう。私もその一人である。

 本書では9人の数学者の生涯が紹介されている。まず、この人選が素晴らしい。ガロアラマヌジャンは個人での伝記もいくつか日本語になっているが、ソーニャ・コワレフスカヤウィリアム・ハミルトンを取り上げた書籍は比較的少ない。有名人だから、という理由だけで選んだのではなく、著者の心の琴線に触れた人物を選んだことがうかがえる。

 各編に共通しているのは、無味乾燥な略歴の列挙ではなく、著者自身の意見や思い出、旅先での感慨が記されている点だ。それが本書のオリジナリティになっており、各人の人となりをくっきりと浮かび上がらせる。なおかつ、文章は読みやすい。数学者にまつわる入門書として最適だと考えるゆえんである。

 

 通読して感じるのは、どんな人間も社会とは無縁でいられない、ということだ。

 純粋数学の安全さを謳ったハーディの弟子・チューリングはドイツの暗号エニグマ解読に貢献し、後に算聖と称せられる関孝和は暦を巡る渋川春海との争いに敗れて『はるかに下の地位』に甘んじた。社会とのかかわりが仕事に影響を及ぼすことを知っていたからこそ、ワイルズは七年もの間、フェルマーの最終定理証明に関して秘密主義を貫いたのだろう。

 他の科学分野、他の職業と同じように、数学者もまた社会の一員である。たとえその業績が神性を帯びていたとしても、あくまで人間の手による業績だということを忘れてはならない。

 神という言葉は、時に人を思考停止に陥らせる。本書の紙面で生き生きと描かれているように、数学者ひとりひとりは生身の人間だ。その業績を残した人物への敬意は欠かさないようにしたい。

 何はともあれ、本書には凡百のフィクション顔負けのドラマチックな人生が詰めこまれている。数学ものは初めてという方も、さんざん読んできたという方にも、お勧めできる一冊である。

 

 ちなみに「永遠についての証明」では、二人の数学者が主人公として登場する。そのうちのひとり、天才と呼ばれる三ツ矢瞭司の人物造形には、本書に登場する数学者たちが深く影響している。

 彼・彼女たちに共通するエッセンスが、少しでも三ツ矢瞭司という人物で表現できていればと思う。

胃壁の住人

 仕事中、みぞおちのあたりに痛みを感じた。

 下腹部の痛みは経験があるが、そのへんが痛むのは初めてのことで、首をひねりながらも仕事を続けた。

 最初はたいしたことのない痛みだと思っていたが、徐々に痛みは強くなってくる。痛みは波のように強弱があり、弱い時は我慢できるのだが、強くなってくると仕事も手につかない。午前中からはじまった痛みは、昼食後も続いていた。私はとうとうパソコンのキーボードを叩く手を止め、トイレの個室でこめかみのあたりに手を当ててうめいた。ちょうど胃のあるあたりだ。

 ストレス、という言葉が脳裏をよぎった。

 ちょうど、立てこんでいた仕事が片づいた直後だった。身体の不調は緊張が緩んだタイミングで出やすいと聞いたことがある。今まで胃痛を経験したことは一度もなかったが、ついに。ついにストレスで胃をやられたのだ。ずっとちびまる子ちゃんの山根君の気持ちがわからない半生を過ごしてきたが、これからは彼に共感を覚えながらアニメを見ることができる。

 半休を申し出て、消化器科へ駆け込んだ。エコーで胃内の様子を観察してもらったが、食物塊があってよくわからない。炎症かもしれませんね、と医師は言った。胃薬をもらってその日は終わった。

 翌日になればやわらぐかもしれないという淡い期待は、起き抜けの痛みで打ち破られた。昼まで様子を見たがやはり収まらないため、今度は翌日午前に同じ消化器科で内視鏡を予約した。もしかしたら、たまりにたまったストレスのせいで胃潰瘍まで至っているかもしれない。

 不安を抱えつつ、上下スウェットで病院へ向かった。楽な格好でお越しくださいということだったので、その通りにした。前日から、消化のいい豆腐やおかゆなどしか食べておらず、当日朝も絶飲食だったため、げっそりとした気分である。

 せめてもの楽しみにと、前日に書店で最果タヒの詩集『グッドモーニング』(新潮文庫nex)を買った。この鮮烈な詩集を読んで、実際、ストレスが緩和された気がした。文字の視覚的効果を存分に味わい、別の著作も買おうと決めたところで私の名前が呼ばれた。

 いくらか弱くなっていたが、胃痛はしぶとく残っていた。この胃痛とは長い付き合いになるかもしれない。悲壮な覚悟とともに処置室へ入った。全身麻酔の上、朦朧とする意識のなかで内視鏡を飲みこむ。

 処置後、しばらく横になって休んだ後に診察室へ呼ばれた。男性医師が示したモニターに、ぬらぬらした桃色の壁が映っている。どうやら私の胃壁の写真らしい。胃壁には白い糸くずのようなものが付着している。医師は糸くずを指さして言った。

「この白いやつ。これ、アニサキスです」

「え?」

アニサキス。わかりますか。寄生虫の。こいつを取りました」

 聞いたことはある。たしか品川庄司の庄司がイカを食べてやられたやつだ。渡辺直美もやられてたような気がする。医師は胃壁に取りついていたアニサキスを取り除いてくれたらしい。

 前日の夕食を思い返す。たしか、刺身を食べた。そのなかにアニサキスが潜んでいたのか。

「じゃあ、胃が痛かったのはこいつのせいですか」

「そうでしょうね。今、痛いですか」

「……痛くないです」

 嘘のように胃痛は消えていた。医師はマイペースで続ける。

「これが、それです」

 3分クッキングのような台詞とともに小さなガラス瓶が差し出された。瓶は透明な液体で満たされ、1~2センチくらいの白い糸のようなものが入っている。これが、ついさっきまで私の胃壁にくっついていたというのか。感慨はなくはないが、だからどうしたという気もする。

「持って帰りますか。記念に」

「え、あ、いや」

「この写真はどうしますか。持って帰りますか。データを希望する人もいますけど」

「いや、それはいいです」

 写真を断ったことで、何となく、ガラス瓶は持って帰ります、と答えたような感じになってしまった。待合室は診察を待つ人であふれている。慌ただしそうな医師に「いりません」と言い出すことができず、私はガラス瓶をカバンに入れて診察室を出た。

 これ、どうしよう。そう思いつつ、結局自宅まで持ち帰ってしまった。

 今でもその瓶は、所在なさげにデスクの上に置かれている。瓶のなかに何の液体が満たしてあるかわからないから捨てにくいし、欲しがる人がいるはずもない。たまに存在を思い出しては覗きこんでみたりするが、変化が起こっているはずもなく、液中で白い糸がたゆたっているだけである。

 本当にこれ、どうしよう。

 今日も結論が出ないまま、瓶はデスクに放置されたままだ。

わたしと『数本』 3冊目

 『数学する精神――正しさの創造、美しさの発見』中公新書

(加藤文元)

 

 数学や数学者に神秘的なイメージを見出す人は少なくないのではないだろうか。

 かくいう私も、本書を読むまではそう考えていた節がある。特に、数学にまつわる読み物で頻出する「美しさ」という言葉に引きずられていた部分もあった。

 しかし他の学問と同様、数学も人間の営みの一部である以上、必ず人間くささをはらんでいる。とっつきにくい記号や数式のイメージが無機質で機械的な印象を与えているものの、それを作り出したのも人間なのだ。数々の言語や社会のルールと同じように。「美しさ」だって人間の手で作られたもので、いきなり目の前にポンと現れたわけではない。

 本書の冒頭。著者は仏師を引き合いに出し、どんなに深奥な芸術も人間の手が加えられているからこそ豊かなのだと語る。それは自然科学も同様であり、数学を創ったのも人間なのだということを、改めて気づかせてくれる。

 私たちはあまりにも、科学に対して信頼を置きすぎることがある。科学的に正しいということは、絶対的な正しさを意味しない。(科学への信頼を悪用し、「科学的に正しくない」ことまでもが、「科学的に正しい」と主張される場合すらある)

 科学もヒトの営みであり、多くの人が日常的にこなしている仕事や家事、勉強、遊びといったことと同じ次元で捉えることで、適切な距離感を保つことができるようになるかもしれない。

 

 本書は「二項定理」を軸として、数学における「正しさ」「美しさ」とは何か、という言語化困難な命題に挑戦している。

 言葉は平易で、数学に心得のない人でもなんとなくわかるように書かれている。それでもときには数式や難解な概念が登場するが、それを読み飛ばしても雰囲気は理解できる。そういった読み方ができる本は、実は稀有な存在ではないだろうか。

 普通、専門書の類は読み飛ばしてしまうと以後の内容がよくわからない。入門書といわれる本でも、序盤の定義づけが理解できないと、後半の内容がさっぱり理解できないということはしばしばある。かろうじて理解できても、退屈に感じられてしまい、興味を持続させて最後まで読み切ることが難しい。しかし本書はそういった退屈さとは無縁で、わかりにくいところをガンガン飛ばし読んでも十分に楽しく、面白い。(もちろん、難しい箇所で立ち止まって考えてみても面白い)

 エピローグで紹介される「数の系譜」は、数学者の苦闘の歴史である。

 自然数(正の整数)しか存在しなかった世界に負の概念が持ちこまれ、数の世界は正と負の整数にまで広げられた。数字の足し引きから掛けたり割ったりという処理が生まれ、世界は有理数まで拡大された。割り切れない数を認め、円周率などの数字を認めることで、世界は実数まで広げられた。虚数という思考の産物が誕生したことから、世界は複素数まで開拓された。

 いつか全く異なる発想から生まれた数が、その先に加えられるかもしれない。数の地平をどこまで切り拓くことができるかは、とりもなおさず人間の営み次第だ。数の世界は絶対的な神が用意したものではなく、人間の手で押し広げられた場所なのだから。

 

 本書は「永遠についての証明」を書くにあたり、最も参考にした資料のひとつである。この名著と出会わなければ、まったく違う小説になっていたかもしれない。

 数学の豊饒さ、美しさを教えてくれた本書には、感謝してもしきれない。

改稿のGW

 タイトルのまんまです。

 現在「永遠についての証明」の改稿まっ最中で、この連休は主にノートパソコンと向き合って過ごすことになりそうです。(観劇とか飲みに行ったりとか、それなりに息抜きもありますが)

 今、自分が書いている文章がこのまま本になるのかと思うと、とても不思議な気がしてきますね。新人賞に投稿する原稿を書いていたときにはなかった緊張感がありますが、あまり意識しすぎず、「面白くする」ことだけを考えるよう心がけています。

 

 今日は剣道の都道府県対抗大会が大阪で開かれました。

 この大会の特徴は、さまざまな年代・職業の選手がひとつのチームを結成して試合に臨む点です。1チーム7名で構成され、先鋒は高校生、次鋒は大学生、五将は18~35歳、中堅は教職員、三将は警察職員、副将は35歳以上、大将は50歳以上かつ七段以上という条件がついています。他競技ではあまり類例がない大会ではないでしょうか。

 (詳しくは「全日本都道府県対抗剣道優勝大会」ウェブサイトをご覧ください)

 ※http://www.kendo.or.jp/competition/todohuken/66th/

 今年の都道府県対抗は緒戦で昨年優勝の東京都、昨年準優勝の大阪府がいずれも敗退するという波乱の幕開けでした。

 決勝は、東京都との勝者・和歌山県を降した北海道と、大阪府を破った茨城県

 大将戦までは、先鋒から副将までの6名で互いに3勝3敗という五分の状況。ただし取得本数では茨城のほうが1本リードしていたため、大将が引き分け以上なら茨城の勝利という展開でした。この状況で北海道の大将は全日本王者にして、元日本代表の大将・栄花直輝八段。茨城の大将・山下克久八段と1本ずつ取り合い、「勝負」までもつれこみますが、最後は栄花選手の面打ちで試合終了。見事、北海道を優勝に導きました。

 北海道チームには知り合いがいるため、優勝と聞いたときは素直に嬉しかったですし、自分も負けていられないな、という気持ちにさせてもらいました。最近はめっきり竹刀を握っていませんが、学生時代の集中力を呼び覚まして、なんとか改稿をやりとげます。

書店のファンベース

 本のある場所はいつだって楽しい。

 書店も図書館も楽しい。駅前の大型書店も、郊外の小さな書店も、駅ナカの書店も楽しい。町の図書館も、大学の図書館も、カフェや待合室の本棚も楽しい。初めての書店も、通いなれた書店も楽しい。

 だが、別にそういった場所が楽しくないという人もいるようだ。どうもすべての人にとって本のある場所が楽しいわけではないらしい。

 程度さえ問わなければ、私は一応「書店のファン」「図書館のファン」と呼ばれる人種の端くれと言えるだろう。

 ファン代表として業界の問題を高らかに宣言するつもりはない。私が話したいのは、「もっとたくさんの人に書店のファンになってもらうには、どうすればいいのだろう?」ということだ。おせっかいだろうが「こんなに楽しい場所があるのだから、もっと多くの人に好きになってもらいたい」と考えている。

 こんなことを考えはじめたのは、『まちの本屋』(田口幹人、ポプラ社)を読んだのがきっかけだった。

 著者は数々の話題やブームをつくってきたさわや書店フェザン店で店長を務める。書店員としての豊かなエピソードを交えつつ、先輩やお客様と接するなかで形作られた信念が、実直さを感じさせる口調で語られる。

 白眉と感じたのは、書店経営にかかわる一節。特別大きな紙幅を割いているわけではないが、書店員が経営について語る文章を読むのが珍しいこともあって印象に残った。著者には、実家の書店を閉店せざるを得なかった苦しい過去がある。その経験をもとに語られる「稼ぐことの重み」は、我がことのように胸に迫ってくる。

 本書でたびたび著者が強調するのは、「地域に寄り添いたい」という想いである。大規模店にも中小規模店にも、それぞれの役割がある。ただ、どんな書店であれ、その地域に根付いてほしいという著者の気持ちは変わらない。

 さわや書店には、田口店長の選択眼を信頼し、本選びをまかせる常連客がたくさんいる。それは著者自身が誰よりも、地域に根付くという使命をまっとうしている証拠ではないだろうか。

 田口氏の考え方に通じる著作がもう一冊ある。

 『ファンベース』(佐藤尚之ちくま新書)では、書名の通り「ファンベース」という考え方に基づいたマーケティング施策がわかりやすい言葉で論じられている。『人生ピロピロ』(角川文庫)や『沖縄やぎ地獄』(角川文庫)などのエッセイで発揮されるユーモアがここでも巧みに織り交ぜられているおかげで(前記エッセイでは「さとなお」名義)、肩の力を抜いて読むことができる。

 本書では「中長期ファンベース施策」と「短期・単発施策」の2種類の施策を挙げ、それぞれの特徴や効果的な戦略の組み立て方を説明している。また紹介されているファンベース施策の実例が豊富で、参考として挙げられているウェブ記事を読んでいくだけでも勉強になる。

 ファンベース施策の考え方は市場の先細りを前提としていて、これはあらゆる国内市場の共通点である(高齢者向けビジネスはやや趣が異なるかもしれないが)。縮小する市場に対する有効な手立てとして編み出されたファンベース施策では、あらゆる消費者に向けた八方美人な宣伝手法ではなく、むしろ自社・ブランドのコアを前面に押し出すトガったやり方だ。そして何より大事にするのは、ファンと対等に、永続的に、良好な関係を築くこと。

 これは田口店長のポリシーそのものではないだろうか。

 自分のコアを大切にし、地域に根付き、ファンを大切にする。これからの社会人に必要とされるのは、派手に花火を打ち上げることよりも、地道に土壌を耕すことなのかもしれない。